実はここ数日、秋葉原の通り魔事件に関して新聞社やテレビ局などからコメントを求められることが多かったです。
(とくダネ!に出たのは反響が大きかったようで…テレビの影響力の大きさを改めて感じました)
正直、この事件でなぜ私の所に…?と思ったのですが、携帯電話の掲示板に日常生活を記述するという行為を見て、携帯サイトやその使われ方がそもそも分からないので、色々教えて欲しいというケースが多かったようです。
しかし各種報道を見て改めて感じるのは、ケータイの住人とリアル社会の住人との認識の壁です。
SNSやプロフ、最近ではリアル(タイムブログ)などを使いこなしている人達を見ると、ケータイひいてはネットが、家や会社(学校)に匹敵する一つの社会として機能しているのでは?と感じるのです。
家や会社や学校も重要な存在ですが、そのうちのどこに「心地よさ」を感じるかというのはその人によって異なるでしょう。さらに言うなら、自分の居心地のよい社会が存在するからこそ、他の社会にも適応していこうという気力が沸くのではないでしょうか。「仕事は辛いけど、家族が支えてくれるから明日も頑張れる」のと同じように、「仕事は辛いけど、ケータイで仲間が支えてくれるから明日も頑張れる」という感覚を持っていても何らおかしくないはずです。
しかしケータイを知らない人達にとっては、今回の事件の容疑者が行っていたような「日常の行動を逐一報告する」といった行為が「理解できない」「おかしな行動」に見えている訳で、そうした行動を行う人達、ひいてはケータイという社会そのものを否定する傾向が見られます。
今回の事件に関する報道でも、「ケータイ依存」という表現が多く使われ、それがネガティブな要素のように取り上げられることが多かったようですが、そうした考えに至ってしまうのは「ネットはバーチャル空間」「しょせんネット」という発想から抜け出すことができないからではないでしょうか。
ネットによる問題の解決策として、よく「リアル社会でのコミュニケーションが重要」と結論付けるケースが多いですが、これにも正直疑問を感じています。そもそもケータイやネットでの生活が主体となるのは、家や学校といったリアル社会から疎外感を感じるからであって、それを無理矢理リアル社会に引っ張ろうとする行為は、自身が存在できる社会そのものを全否定することにもなりかねないからです。「利用できないよう規制する」なんて行為などはもはや論外です。
リアル社会ではおとなしい人がネットでは活発だったりすることもよくある話で、そこを中心に生活することが悪いことばかりをもたらしている訳ではありません。まずはネットという社会を認め、そこに住む人々の価値観を認め、その中で行えることを行うことが最も重要であり、求められているのではないでしょうか?ケータイやネットを認めることができない「リアル社会依存主義」の方々は、いい加減考え方を改めるべきだと思うのですが。
※今回の事件に関して、経緯を見る限りでは過去にネット上でもトラブルを起こしたりしているようなので、仮に知っていたとしても解決するのが難しい部分もあったと思います。しかしながら、ケータイやネットの中でできることがまだまだあったように感じてなりません。
※実は丁度同日同時刻に、秋葉原で買い物しておりました(書泉とヨドバシにしか寄らなかったので全く気がつきませんでしたが…)。一歩間違えば事件に遭遇していたかもしれないだけに、尚更色々と悔やまれます…。